言葉の多様さがもたらす迷宮

相槌をする時にうんという言葉を使う。同じ言葉でも場面によって、うん?、う〜ん、うんうんうんうん、うん、、、と使い分ける事で、同じ言葉でも解釈や印象は変わってくる。うん以外にも、使い分けが可能な言葉は、はい?、はい!、はーい等、挙げればきりが無い。うんを辞書で調べると、肯定や承諾を表す返事の一つとある。しかしう〜ん、うん、、、と用いる場合、必ずしも肯定的に聞いている、承諾しているとは言えないだろう(否定的、反対の意を示すこともある)。その他にも数字の1ですら、数量や単位として1以外の機能は無いと思うが、多い少ない、早い遅い、良い悪いという解釈が生まれる。または1+1=3(一人ひとりの力を合わせると1以上のより大きな力が生まれる)という例えによる解釈も生まれたりもする。そんな中で時代に即した新しい言葉を作るとどうなるのだろうか。新しい言葉が多く生まれ、解釈も多く生まれ、恐らく齟齬が起こりやすくなるということではないだろうか。より正確かつ適切な言葉を追い求めていたはずが、解釈という名の迷宮に迷い込んでしまっているようにも感じる。とはいえ人同士で解釈を揃えたり、一致させる事が難しい以上、あとは何が個人の態度として必要なのだろう。何の為に言葉があるのかに立ち返る必要はあると思うが、解釈は誰にでも自由に許されるからこそ、言葉には魔力が宿るような気もしてくる。どちらも必要だからこそ、何が必要で、何は自由か、という問題は、どちらもおざなりにできない問題だと思う。

言語が趣味として普及していく事

言語を趣味の領域で使う事は良いが、趣味という事を理解した上で使わないと言語はただ使い勝手が良いコミュニケーションツールに成り下がってしまう。これからもきっと聞いたことも無い新語や流行語は新たに生まれ続け、日常に浸透する聞き慣れない常用語も多く出てくるだろう。ただ言語が増えれば増えるほど、この時はこういう言葉を使った方がより適切だ、その記号の使い方は間違っている、という場面も出てくる。人同士は共通の言語が無ければ、生きていくことは出来ないと思う。しかしこういう言葉を用いた方がより正確である、という事と人同士が最低限必要なコミュニケーションを図り生きていく事は恐らく切り分けて考える必要があると思う。自分の趣味の領域の中で生きていく事、人同士が生きていく為に必要性がある事、それぞれ考えていけたらなと思う。

@$#”£±‼

今日伝えた©¥§£2%/“「¿¢※†&教え」❖✫◢❂☆△と◐▷▷•は∌ζΨθυυΔΔとわかる。果たして✕♢♡◥◥❅✫▼○○[±だろうか。ご♠♦✘✔あり↪↺✛✓✮✺

文字に頼らないと読み取れない。

今日伝えた内£2%は「ブッ※†&教え」仏☆とキリ▷•は世界三ΨθυυΔΔとわかる。果たしてさとりは◥❅✫▼救いとなるだろうか。ご覧✘✔あり↪↺✛✓した。

少しわかるようになった。文字とはそういう役割だったような気がする。

私は◯◯だった

私は◯◯だった。しかしそれは大きな✕✕によって△△にするしかなくなった。ほんとに□□だったんだろうか。いやきっと◇◇だったんだろう。そう◎◎で良かったはずだ。あと●●◉◉って、▲▲■■で、✖✖◆◆だよなぁ。まぁ全部▣▣にも▼▼にも言っておこうか。あ◯がと□ご▲るすや。

今じゃあなたを守りたいとか本気で言えた人が優勝。昔は◯◯ハラとか流行ってよねーくらいに言えるようになれたら、どれだけ生きやすくなるか。何か言ったらこれも◯◯ハラか?となる一種のハラスメント。